保存趣意書

● 趣意書

一年を通して弥生小学校の保存をブログ読者と共に考え、この建築の持つ価値を訴え続けてきた。
今改めてBlog 「函館・弥生小学校の保存を考える」 を一つのサイトの中に組み入れるに当たり、多くの加筆を行なった。 (但し、ブログ内の加筆・修正はせず、訂正を含めた加筆はすべて本サイトの中だけで行なった)
加筆の理由は、この弥生小学校が背景に持つ大火復興史的価値、都市計画的価値、建築的価値、環境共生的価値、郷土史的価値、文化的価値、文化財的価値、教育史的価値、そして教育環境としての価値、それらをもう一度見直し整理しておかなければならないと考えたからである。
この建築についての趣意書を数ページにまとめることは到底できない。
したがってこの短文はそのプロローグであり、このサイトのVol.1はこの趣意を補足する目的で作られていることを承知の上、読み進んでいただければと思っている。


建築の背景-函館市技手・小南武一
小南武一(1897~1976)は兵庫県に生まれる。
大正12年に東京の工手学校卒業と同時に曽禰・中條建築設計事務所に入所するが、大正14年には函館市不燃化政策の遂行のために技手として函館市に迎えられる。
当時の函館は大正10年の大火後の復興事業の一つとして二つの防火線整備と防火壁となる建物の不燃化政策を進めていた。
函館に赴任した小南は大正5年に辰野金吾の設計により既に完成していた鉄筋コンクリート造の書庫に繋がる図書館本館と新川尋常高等小学校 (以下、小学校と記す) の設計に着手し、これらを昭和2年に完成させる。
続いて函館女子高等小学校を昭和4年に、市民館と青年会館を昭和8年に完成させる。
しかしその翌年、昭和9年の未曾有の大火が函館を襲う。
小南の設計した5つの建物の内図書館本館、市民館、青年会館は焼失を免れるが、新川小学校と函館女子高等小学校は甚大な被害を受ける。
その後小南はこの大火復興事業のために設立された函館市復興会に土木・建築の委員として参画し、函館市技師の肩書きで復興事業に従事する。
また同時期設置された函館市復興事務局でも工事課建築係長・市技師として復興事業の中心的な役割を担う。

この大火の復興事業に内務省の指導、東京市政調査会と建築学会の協力があったことは知られているが、函館市復興会は顧問として東京市政調査会理事であると同時に内務官僚であり都市計画家である池田宏、東大名誉教授林学博士で造園家である本多静六、建築学会会長工学博士で当時耐震構造学を最先端で指導できる実力と立場にあった佐野利器らを迎えていることは特筆に値する。

さて、復興事業の中の一つとして小南は焼失した9つの小学校の復興に係わる。
上のj甚大な被害を受けた新川小学校と函館女子高等小学校は全面改修の末、大火の翌年には共に開校にこぎつける。続いて昭和12年までに5校の復興小学校が竣工する。
青柳、高盛、的場、東川、大森の各小学校がこの5校にあたる。
昭和9年の大火は二十間坂で類焼が食い止められたため火災には遭わなかったが、前の復興小学校7校の完成を待つかのように昭和13年、一年遅れて弥生小学校は完成する。
小南は焦土と化した上に再建または新築した7校の復興小学校を急務として完成させ、同時にこれらの復興小学校の集大成として、環境、地勢、伝統、教育、防災、それらすべてに対して周到に考え抜き、卓越した建築として最後に弥生小学校を市民に送り出したと推察する。

また、小南が弥生小学校に他の復興小学校以上に心血を注いだと思われるのは、この大火が二十間坂の防火線で以西への類焼が食い止められたことで、火災に遭わなかった街並みがそのまま残った西部地区は、急務であった復興事業の外に置かれたのではないかと推察する。
そのため防火上脆弱となった西部地区にあって、避難拠点となる東本願寺別院と高龍寺との中間空白域に、防災拠点としての弥生小学校を計画したものと考える。
それは昭和9年から同14年までの函館市災害復興事業費の中の小学校復旧費を見ても、前の7校の事業費のみで弥生小学校の事業費の明記がないことから、罹災していない弥生小学校は復興小学校とは異なる事業計画とコンセプトの下に設計されたものと推察する。
またそのことは小南がこの弥生小学校に於いて、上の7校の復興小学校の集大成として、環境、地勢、伝統、教育、防災、これら全てを計画に盛り込んだ自らが描く理想の小学校をつくり出そうとしたと推察される。

建築の背景-昭和9年の大火復興事業
明治以降昭和9年の大火を含めて函館は26回の火災に遭っている。その内の明治40年と大正10年の火災がその規模から大きく歴史に残っている。
昭和9年の大火までは財政的理由や繁栄を極めている街区の区画整備などがなかなか受け入れられず、大規模な整備まで至れなかった背景がある。
しかし大正12年の関東大震災以後、耐火耐震性に優れた鉄筋コンクリート造が急速に普及する一方、構造学、施工学、材料学の発達や、建築学会の標準仕様書の編集による構造及び施工基準の整備と統一等が進んだ。
それらを背景に無秩序な市街地開発とは隔絶した都市計画法に基づく計画的な都市整備が実行されたことがこの昭和9年の大火後の復興事業の特筆すべきことである。
そして焦土と化した市街地の上に引かれた線が昭和9年の函館復興計画図であり、これが今日の函館の市街地形成と街づくりの元になっている。
そしてこの中で復興小学校の位置と規模は、道路や公園等と密接に連携しながら決定されている。
即ち復興小学校はグリーベルトの終端若しくは交差点の付近に位置し、教育環境への配慮を怠ることなく、防火線の一部であると同時に避難拠点としての役割を担わせている。

建築の背景-世界の趨勢と建築意匠
大正9年に日本分離派建築会が発足し、過去の建築様式からの分離を宣言して日本における近代建築運動の先駆となる。
そしてこの新たな建築界の動きはドイツからの雑誌の影響を大きく受け、それはそのままドイツ表現派建築の影響を強く受けることとなる。
しかし、ドイツ表現派建築が日本にそのまま移植されたわけではなく、分離派メンバー夫々の主観性や思想を反映させながら展開していく。
また、これらの建築は白樺派運動や民芸運動などもその背景としながら、個性ある独自の展開をしていく。
ドイツにおける19世紀末から20世紀初頭にかけてのセセッション(分離派)の革新運動から、第一次世界大戦前の表現派の活動へ、そして1919年に創設されたバウハウスのデザイン運動へと続く。そして、このエネルギッシュな時代の息吹が建築雑誌を通して日本に入ってくる。
しかし、この流れの中でオランダの若い建築家グループ・アムステルダム派の存在も忘れることはできない。
ドイツが中心に位置するなら、その周縁での活動や運動の中にある、少し肩の力を抜いた穏やかで優しさに溢れたもの、それを日本で例えるならば、中央の建築に対する地方の建築にこれと似たものを感じる。
中央に対してその周縁が地方とするなら、そのまた「端」に行けば行くほど最初の「思想」「様式」「型」は崩れ、形を変え、そして最後には無秩序へと変化していく。
しかしその混沌の中にも、一つの時代としてくくる時、その中に意味も美しさも見えてくる。
中央の建築の一つは逓信省経理局営繕課の作品であり、山田守や吉田鉄郎などが籍を置き、東京中央電信局や東京中央郵便局、逓信病院など一級品が挙げられる。
また関東大震災の復興計画として行なわれた東京都内の鉄筋コンクリート造の復興小学校にも近代建築の一連の秀作が見られ、その他鉄道省や司法省営繕係の作品の中にも近代建築運動の成果の反映が見られる。
明治期の国家建設の使命を担ったヨーロッパの伝統的様式建築の移植が終わり、その後の擬洋風建築や折衷建築等々、その他数多の建築運動から抜け出し、否それらに背を向け新たな近代建築に向い歩み出していた時流の中で、この函館においてもその経済基盤をベースに多くの民間建築が作られ、それらを手がけるために建築家や多くの設計技師が中央から集まって来た。
そしてこの函館の地で独自の建築が花開く。
それは上の中央から見ての「端」であるかもしれないが、函館の風土と気質を背景にして多くの個性豊かな建築が生み出された。
今も銀座通りに残る擬洋風建築、その他の折衷建築、そして表現派や分離派の影響の影が残る美しく穏やかで優しい建築、それらが混在することで固有で独特な雰囲気を醸し出す、それがこの町の財産であり連綿と守り継がなければならないものである。

弥生小学校考察-建築学会と佐野利器
建築学会が1934年(昭和9)に出した「耐火建築の注意(特に今回の函館市大火災調査委員会報告に據る)」の中で鉄筋コンクリート造について、次のように書かれている。

『鉄筋コンクリート造は耐火的であると共に耐震、耐風、耐久的であるから都市建築に最も適する。然しそれには次のような注意が必要である。
鉄筋コンクリート造は構造及び施工の点から見て特に完全でなければならぬ。
鉄筋コンクリート造が完全なものであれば万一火焔に包まれ或いは内部が焼失しても、其の構造主体は殆ど被害を受けず、従って簡単に修復し得るのが普通である。然し構造及施工に欠陥があると火災時にしばしばその弱点を曝露して復旧不可能に至る事さへある。のみならず地震に対しても亦安心出来ない。(中略) コンクリート面の仕上げは火災時には構造主体の保護層として重要な役目をする。故に保護層はモルタル、漆喰、タイル等の不燃材料を以って相当の厚さ(約2、5糎即ち八分以上)として置かねばならぬ。(後略)』

これは単に耐火のために鉄筋コンクリート造を推奨しているだけではなく、その耐震性の優について言及し、その裏付けとしての構造及び施工の重要性を力説しているのが分かる。
当然小南武一は設計と施工に当たり、この報告書と併せて、1929年(昭和4)に発表された建築学会のコンクリートおよび鉄筋コンクリート標準仕様書を熟読し実践したと思われ、佐野利器の指導を受け竣工した他の復興小学校以上に堅牢な構造体に仕上げたものと推察する。

弥生小学校考察-建築の特徴
弥生小学校は東坂・北側道路・弥生坂側に面する教室棟部分が、校庭を南側に抱え込むようなコの字形をしていて、東坂側は校舎の終端が直接体育室につながり、弥生坂側は渡り廊下によって体育室につながる構成になっている。
校庭は北側道路から1階分スロープで上がったレベルにあり、この校庭から更に1階分スロープで上がると、東坂と弥生坂側に設けられた子供たちの出入口と体育室のレベルになり、校庭とは対照的に木々に覆われた中庭になっている。
この校庭と中庭がちょうど1階分のレベル差を持つために、中庭に接する部分では東坂側の校舎は2階建に、弥生坂側の校舎は1階建に見える。
東坂側はこの高さのまま、ほぼ同じ高さの体育室に連続し、そのために校舎は体育室と一体となって校庭を包み込む形となり、一方、弥生坂側は1階の高さに押えられた校舎終端と体育室が、よりスケールを落とした渡り廊下によってつながれている。
これは下の校庭に立つと、四方が囲まれ閉じた平面計画でありながら、弥生坂側の校舎終端の高さを1階分低くした上に、尚もスケールを落とした木造の渡り廊下でつなぐ巧みな手法、即ち、四方を囲む弥生坂側の一角を低く落とすことで、その先にある弥生坂との連続性が断ち切られるのを回避している。
また、上の段の中庭に落葉高木を植栽することで、デザインの異なる校舎と体育室のデザインの切り替えを和らげると共に、冬は太陽の光を、夏は木陰を提供するよう緻密に計画されている。
この考え抜かれた建築計画に加えて、下の校庭から上の中庭へ、そして更に借景を意識した函館山と弥生坂に向かって伸びるランドスケープの巧みさが乗算され見事な空間をつくり出している。

この校庭と中庭は次のように考えられている。
校庭を地下1階にあたる北側道路のレベルではなく1階レベルに置いた理由は、避難する住民を火焔から守る目的と思われ、この考えはスロープでつながる中庭へと一貫している。
中庭は、東坂や弥生坂から避難する住民を、前とは逆に上の中庭から下の校庭に避難させる断面計画がここにはある。地形的特性を逆手に取り、そして卓越した手腕によって、教育、機能、環境、安全、避難、それらすべてを明快に解決した空間処理は見事である。
災害時に於ける児童と住民への平等な配慮は、この建築と住民そして環境との距離をなくしている。

弥生小学校考察-保存の意味
以上、背景及び建築の考察の結果、弥生小学校保存の意義を列記する。

■大正10年の大火後の函館市不燃化政策の遂行に始まり、昭和9年の大火後の復興事業、そしてその後の函館市建築課の礎をつくったとも言える函館市技手・小南武一の秀逸な建築である。
■大火復興事業として建設された復興小学校の集大成としての意味と価値を持っている。
■昭和初期という様式建築から近代建築への過渡期にあって、その意匠には独創性がある。
■公共建築としての使命を考え抜いた避難拠点としての独創性がある。
■教鞭をとった逸材と輩出した人材の学び舎として価値がある。
■周辺地域との相乗効果によって育まれたアイデンティティを相互に共有している。
■地形的特性を読み卓越した手腕によって比類なき独創的な教育環境を生み出している。
  ・坂の高低差を巧みに生かした平面計画
  ・校庭と中庭を高低差を利用し防災拠点と教育施設の融合を実現した斬新性
  ・単調に見える立面計画の中に、構造的見識に裏付けされたデザイン力
■まち並と周辺環境の形成が終わり、風景の一部として同化している。
■背景にある歴史と共に未来に伝え残す多大な価値がある。

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