函館大火復興事業考察

上掲地図出典/函館大火災害誌


● 昭和9年大火復興事業考察

函館はこれまで度重なる大火に見舞われた歴史を持っている。
それは明治時代の19回、大正時代の6回、昭和時代の1回で、その数は合わせて26回にも及ぶ。
大火災害史的に見ると、明治40年、大正10年、昭和9年の大火に言及するものが多いが、これはこれら3つの大火被害が甚大であったが故に、防火線の整備、都市計画的区画整備、消火用水確保のためのインフラ整備などが行なわれたことの反映であり、それが後世に資料が残る要因となっている。
しかし焼失戸数1000戸以上を出した大火だけを取り上げても10回、500戸以上だとその数は15回にも及ぶことを書きとめておきたい。

明治40年の大火後の復旧事業は20間道路の整備などが求められるが、区側は現下の財政事情を挙げて小規模な道路改修への理解を求めている。
一方道庁側は道路幅員の拡張と防火線設備等の必要性を指摘しているが、区の財政事情から都市空間の変容はほとんど見られず、むしろ一般民衆に防火意識の向上を促すことで財政支出を抑える方策が採られた。
しかしこの時期防災意識の高揚を受けて火災予防組合が生まれ、消防隊の組織変更を含め消火機材の増設や非常用水道の整備など火防設備の進展があったことも記録に残る。
しかし明治40年の大火後に於ける最大の成果は大正4年の以下の出来事ではないだろうか。
それは大火は主として可燃質建築が原因だが、従来の習慣から土地の貸借期間が短期なために永久的な耐火建築を造ろうとした場合の障害となる土壌があった。
そのためこの旧い習慣を打破し地上権の設定または長期貸借実現に向けての提言を行っている。
しかし漸次耐火的又は准耐火的建築に改良する必要を認めた上で、現下の区の経済状態ではその実現は困難とし、この目的を区に代わって遂行する民間建設会社の設立を希望している。
他力本願だが、これは民間会社による耐火建築事業推進の始まりを意味している。

大正10年の大火は二十間坂の防火線を超え基坂の防火線手前で漸く鎮火する。
この時も罹災家屋の多くが可燃性の木造家屋であったことから・随所に防火壁を設置すると共に狭少道路の改善が急務とされた。
しかし、この大正10年の大火後の特筆すべきことは銀座通り(当時は恵比須通り)を12間幅に拡張し、この通りを函館港から津軽海峡へ貫通させたことではないだろうか。
一方当初の防火線構想、即ち二十間坂と同じく恵比須通りを20間幅に拡張することで2つの防火線を構築することは、繁栄を極めていた商店街としてのスケールに馴染まず、建物の不燃化を図ることで道路幅については柔軟に対応することで決着をみる。
言うまでもなくこの背景にはあくまで不燃質建物による防火線を重視していたことが考えられる。
そしてこの時の判断が結果として銀座通りにあの特有な都市景観を生み出すことになる。
しかし当時の繁華街である十字街を含む区域、即ち恵比須通り以西はこの防火線によって守られるが、東に向けて市街化が進む区域に対しては全く無防備であった。
それは都市計画事業への財源確保の困難から、東部の放慢無統制市街化を抑制することができなかった当時の事情があるとは言え、このことが明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性があるとの指摘を遠ざけたのも事実と言える。

昭和9年の大火は住吉町で出火し台風並みに発達した低気圧の影響を受け、上に書いた明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性があるとの指摘通り、市街化が進み無防備であった的場町までを焼き尽くす大惨事となった。
この大火は西は二十間坂の防火線で類焼を食い止めるが、大正10年の大火後に整備されたもう一方の恵比須通りの防火線は防火壁としての役目を果たせず、東部への類焼を阻止することはできなかった。
しかしこれは大正12年の関東大震災後に一般化する鉄筋コンクリート造とは異なり、確立した基準もないまま見様見真似で造られた不完全な鉄筋コンクリート造のため、本来の耐火構造群としての防火壁の機能を果すことができなかったと言える。



復興計画全体図(1200).jpg
昭和9年6月4日付「函館市復興計画図」
(函館市中央図書館蔵)

復興計画図2(750).jpg
color  55m道路
color  36m道路
color  27m道路(主区画以外は割愛)
color  公園
color  建物
color  防火線による区画区域


昭和9年の大火後の復興事業の特徴は都市計画法に準じたこと、国からの経済的補助が得られたこと、内務省の指導と道庁職員の動員がなされたこと、そして既に函館不燃化計画に10年近くに亘り係わっていた小南武一が市側の技師としていたことが挙げられる。
函館市復興計画図を見ると、焦土と化した土地は55m道路によって5つの区域に大きく分けられ、その骨格となる防火線を直角に結ぶ36m道路によって更に細かくその区域は分割されている。
そしてその中を27m道路によって更に細かく分割するという周到な復興計画が描かれている。
この復興計画に於ける復興小学校について市史には次のように書かれている。

「小学校は、直接に都市計画として決定はされていないがその位置や大きさは街路、公園等の復興計画と連携させ区画整理設計として決定されている。そのために小学校の位置は、グリーベルトの終端かもしくは交差点の付近に求め、児童教育に閑静な環境を与えるとともに防火線と一緒になって防風、防火の目的を担っているのである。もちろん校舎は、鉄筋コンクリート造である。」(市史引用)

もう一つ見落としてはならないことがある。
昭和9年大火の復興事業のために函館市復興会が設立されている。
その復興会の役員は顧問として東京市政調査会理事・池田宏、東大名誉教授林学博士・本多静六、建築学会会長工学博士・佐野利器、そして委員(土木・建築)として函館市技師・小南武一、函館市土木課長・本島正輔が名を連ねている。
当時係長の小南の名が土木課長より前に書かれていること、また市側総勢9名の内技術系は上の2名であることから、小南はこの復興事業の函館市側の実質的責任者であることが窺い知れる。
また函館市復興事務局も設置されているが、この中の職員を見ると工事課建築係長市技師・小南武一となっていて、小南の名前だけが明記されていることからもその実力と重責ある立場を窺い知ることができる。

上の東京市政調査会理事・池田宏は内務官僚であると同時に都市計画家であり、関東大震災後に帝都復興院計画局長として復興計画にあたった人物として知られている。
東大名誉教授林学博士・本多静六は造園家であり日本の「公園の父」と言われている。
同氏は北海道の大沼公園にも係わったこともあり、この復興事業では都市整備と避難場所としての公園やグリーンベルトの計画に係わったものと思われる。
建築学会会長工学博士・佐野利器は東大で辰野金吾の講義から耐震構造理論の確立を目指し、耐震構造学の開拓者と言われている。
同氏は関東大震災後に帝都復興院理事と東京市建築局長を兼任し、東京の復興小学校建築に係わった人物としても知られる。
その日本の建築構造学の基礎を築いた佐野利器が直接指導した東京の復興小学校は、耐震診断の結果、十分な耐力を持つと診断されている。
その同じ人物が函館で直接指導したのが函館の復興小学校であることを忘れてはならない。


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color ● 明治40年大火焼失区域

明治40年の大火

明治40年8月25日午後10時20分東川町27番地より出火、翌日午前9時鎮火。
焼失区域は40余万坪、焼失戸数は8,977戸、罹災人口は32,428人、死者は8人の惨事であった。
(市史より抜粋)

大火区域
「明治40年改正函館港全図」(函館市中央図書館蔵)より作成
全体写真(以下同様)
(昭和9年)函館市復興計画図」(函館市中央図書館蔵)及びGoogle Earth提供衛星写真より合成
鳥瞰写真(以下同様)
「函館の古写真」(函館市中央図書館蔵)より作成

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color ● 大正10年大火焼失区域

大正10年の大火

大正10年4月14日午前1時15分東川町198番地より出火、同日午前7時30分に鎮火。
焼失区域は152,830坪、焼失戸数は2,141戸、罹災人口は10,996人、死者は1人の惨事であった。
大火後、区会議員協議会は焼跡の路線を改正する事と焼跡に五線の防火線を設け鉄筋コンクリートの防火壁を築造する事を決定している。
(函館市史抜粋)

大火区域
函館市史より作成

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color ● 昭和9年大火焼失区域

昭和9年の大火

昭和9年3月21日午後6時53分、函館市住吉町91番地より出火、翌日午前6時鎮火。
焼失区域は4,164㎡、焼失戸数は2,267世帯、罹災人口は10,996人、死者は2,166人の惨事であった。
(函館市史抜粋)

大火区域
函館大火災害誌より作成
参考:函館市大火焼失区域略図

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大火年表.jpg
color ● 明治40年大火焼失区域
color ● 大正10年大火焼失区域
color ● 昭和9年大火焼失区域
color ● 明治・大正・昭和、全26回の火災発生の町域

函館大火概要

明治2年5月11日の弁天岬台場での出火から昭和9年3月21日の住吉町での出火まで、明治19回、大正6回、昭和1回の大火に見舞われてきた。
左は明治40年大火、大正10年大火、昭和9年大火の焼失区域、そして全26回の火災発生の町域を印で示している。
(注記:上の町域とは概略の位置関係を示す為のもので、出火場所を特定するものでも、焼失区域を示すものでもない)

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