函館復興小学校考察

上掲地図出典/函館市中央図書館


● 函館復興小学校考察

大正10年の大火後、防火線の設置と鉄筋コンクリート造防火壁の築造が大きな課題となる。
また東部への市街化が急速に進む中で、長屋の連続や防火用水利などのインフラ整備の遅れにより、明治40年の大火に匹敵する潜在的危険性が既に指摘されていた。
そのような情況下にあった函館に大正14年、函館市不燃化政策を遂行するために曽禰・中條建築設計事務所から他の二人の技手らとともに小南武一は迎えられた。
当時函館では大正5年に岡田健蔵により北海道初の鉄筋コンクリ-ト建築物である書庫が完成しており、小南が来た時、岡田は市立図書館長に就任し、既に本館建築の寄付も取り付けていた状況にあった。
そのような背景の中、小南は昭和2年に図書館本館と新川小学校 (以後も、尋常小学校の表記は省略)、昭和4年に函館女子高等小学校、昭和8年に市民館と青年会館(現、公民館)を世に送り出す。

そして昭和9年の大火が函館を襲う。
この火災により中等学校1、私立裁縫女学校7、市立小学校9が焼失する。
この小学校9校の内、7校が木造校舎、2校が鉄筋コンクリート校舎であった。
この2校こそが小南が設計した新川小学校と函館女子高等小学校であった。
また焼失した市役所は一時元町公会堂を仮庁舎とするが、不便なため焼失を免れた市民館で業務を再開する。

函館市災害復興事業費を見ると、5校の新築復旧費と2校の修繕復旧費の記載があり、また事業費の説明には次の文言が残っている。
「焼失小学校9校の内、2校の鉄筋コンクリート造は直ちに修理を加えて使用し、5校を鉄筋コンクリート造とする。」
そして昭和10年に新川小学校と函館女子高等小学校が改修を終えて竣工し、昭和10年に青柳と高盛小学校、昭和11年に東川と的場小学校、昭和12年に大森小学校、そしてこれら7校の完成を見届けるかのように、弥生小学校が昭和13年に竣工する。


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color ● 明治40年大火焼失区域
color ● 大正10年大火焼失区域

大正10年大火後の不燃化政策に於ける小南武一の仕事

左図中、の範囲が明治40年大火区域、の範囲が大正10年大火区域を示している。
小南はこの後者の大火後の不燃化政策遂行に従事する。
小南は左端の図書館本館と右端の新川小学校を昭和2年に、海に面した函館女子高等小学校を昭和4年に、、そして大正10年の大火区域の両端近くに、市民館と青年会館を昭和8年に完成させる。(

焼失小学校.jpg
color ● 昭和9年大火焼失区域

昭和9年の大火による焼失小学校

左図は焼失した小学校9校を示している。
右から左に向かって、大森小学校(木造)、新川小学校(鉄筋コンクリート造)、高砂小学校(木造)、函館女子高等小学校(鉄筋コンクリート造)、東川小学校(木造)、第二東川小学校(木造)、宝小学校(木造)、住吉小学校(木造)、そしてその上が汐見小学校(木造)になる。(

復興小学校.jpg
color ● 昭和9年大火焼失区域






復興計画図と小南建築.jpg

昭和9年大火の復興事業としての復興小学校

左図は復興小学校を示している。
右から左に向かって、的場小学校(現、的場中学校)、高盛小学校、新川小学校、大森小学校、函館女子高等小学校(後の旭中学校)、東川小学校、青柳小学校、そして上にある印が弥生小学校となる。
因みに、印は改修された2校、印は新築された5校を色分けしている。
東西方向には的場小学校から青柳小学校にかけて、復興小学校が大火避難時の拠点として均等間隔で建設されているのが分かる。
それに対して弥生小学校だけが離れていて、この復興建設計画の概念から外れるように見えるが、印の2箇所を加えると南北方向にも均等間隔で避難拠点が考えられていることが分かる。
因みにこの二つは下が東本願寺別院、上が高龍寺にあたる。

左の地図は函館市復興計画図で、大火後の道路計画が見て取れる。図中のマークは上の7校の復興小学校と弥生小学校に加えて、印で小南が設計した図書館本館、青年会館、市民館を示している。

現存する小南建築.jpg

現存する復興小学校

左図は現存する小南武一の建築を示している。
復興小学校としては右から左に向かって、印で示す的場小学校(現、的場中学校)、高盛小学校、青柳小学校、そして上に印で示す弥生小学校となる。
印は旧図書館本館と青年会館(現、公民館)となる。

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