小南武一の建築

上掲写真/函館市中央図書館


● 函館市技手・小南武一の建築考察

小南武一は大正10年の大火後の函館市不燃化政策を遂行するために、三戸義夫・荒木善三郎と共に、曽禰・中條建築事務所から大正14年に市技手として迎えられる。
そして不燃化政策に取り組んでいた最中に函館は昭和9年の大火に見舞われる。
その後、大火の復興事業に函館市技手兼復興事務局係長として中心的立場で係わった後、昭和17年に建築課長、昭和28年に助役、そして昭和30年に退任する。
退任後は函館に自分の設計事務所を開き昭和51年にその生涯を閉じる。
ここでは8つの復興小学校以外の小南の建築として、昭和9年の大火前に設計された3つの建築を取り上げ説明を加えたい。



図書館本館 (昭和2年竣工)

大正14年に函館に赴任した小南が最初に手掛けたのがこの図書館本館となる。
小南が赴任した時は辰野金吾が率いる東京の辰野・葛西建築設計事務所によって、北海道初の鉄筋コンクリート造建築となる書庫が大正5年に完成しており、図書館長・岡田健蔵は図書館本館建設のために小熊幸一郎から多大な寄付を既に取り付けていた。
函館に於ける建築不燃質化の歩みは岡田健蔵の図書館建設の歩みと合致しており、岡田は同時に小学校の不燃質化の必要性も訴えていた。
それは小南が図書館本館に次いで取り組むのが新川小学校と函館女子高等小学校であることが如実に物語っている。
また岡田によってつくられたこの図書館が、大火から書庫は今の函館の図書館の礎となる資料を守り、本館は罹災した人々を守ったことを決して風化させてはならない。
函館大火災害誌を読むと、火炎から書庫の資料を守るために、岡田が錆び付いて動かない鉄製の扉を他の職員を避難させる一方で必死に閉めたことや、岡田の愛娘で当時小学生の岡田弘子さんが書いた作文の中に、罹災して図書館に避難した人々の様子が描かれている。
立派な中央図書館が完成し放置されたままのこの旧図書館本館は、その歴史から見て再び図書館として使われることを待ちわびているし、それが最も相応しい。
耐震診断調査とそれに続く不要な耐震補強工事によって岡田と小南が残したものを決して踏みにじってはならない建築である。




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(図)図書館絵葉書2.jpg
写真/函館市中央図書館蔵


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・・写真/ezzoforte

・・2008年4月 筆者撮影(以下同じ)



青年会館(現、函館市公民館) (昭和8年竣工)

この建物は昭和8年に青年会館として建設されたもので、鉄筋コンクリート造3階建て、講堂(360余人収容)と3つの集会室及び和室と事務室の設備を持っている。
しかし、実際には昭和9年の大火で焼失を免れたことで、焼失した裁判所がこの建物を使用することになり、青年会館としての開館は昭和13年を待つことになる。
そして、戦後の公民館設置の奨励を受け、占領軍の接収から解除、返還されたことを機に昭和22年に公民館として開館したという歴史を持っている。
現在、音楽ホールとしての程よいスケールから新たな活用に歩み出している一方で、耐震診断調査とそれに続く耐震補強工事の問題を新たに抱えている建物でもある。




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写真/函館市中央図書館


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・・写真/函館市中央図書館(同右)

・・出典/関根要太郎研究室(同右)

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・・2008年4月 筆者撮影

・・写真/関根要太郎研究室(以下、同じ)



市民館 (昭和8年竣工)

青年会館がコンペ当選案を元に小南が設計・監理を行なったものであるのに対し、この市民館は小南が最初から手を下した建物となる。
当時西川町にあったこの建物は昭和9年の大火で隣接する消防本部が完全に焼失する中、罹災しながらも焼失は免れる。
罹災前には市民館1階は公設市場として使われていたが、大火後は焼失した市役所の業務がここで行なわれた。

小南が大正14年に函館市不燃化政策の遂行のために函館に赴任し、図書館本館、新川小学校、函館女子高等小学校、青年会館、そしてこの市民館を次々と完成させる。
そんな中、昭和9年の大火に見舞われる。
小南の設計したこれら5つの建築の内3つが罹災するが、火焔が猛威を奮い周りが焦土と化す中で、これら3つの建物は焼失することなく残り、きちんとした設計と工事でつくられた鉄筋コンクリート造建築の耐火性を人々に知らしめた。
これらの内新川小学校と函館女子高等小学校は改修工事を経て大火の翌年には開校にこぎつけ、この市民館は大正10年の大火後に防火線として整備された銀座通りの建物がことごとく甚大な被害を受ける中で、この建物だけが焼失を免れたのは決して偶然でも運の良さでもない。
そこには小南が(東京の)銀座服部時計店新築工事現場で関東大震災を体験し、その後の工事打ち切りと設計者の変更という苦い経験の中で、耐震耐火建築としての鉄筋コンクリート造の可能性を誰よりも感じ、熟知して取り組んだからに他ならない。

函館市史には次の一文が残されている。
「(函館の)銀座は大正十年の火災に西岡區長が造つた火防線道路だが、當時建物も低資を貸付けて、全部鉄筋コンクリート或は木筋コンクリートにしたものだが、見かけは好かつたが防火には何も役に立たなかつた。函館は風の性質が惡いので、凡そ火事の時は旋風が起るのを普通としてゐるが、今後は完全な防火線を必要とする。」

また残りの2つの建築、即ち図書館は罹災者の受け入れに、青年会館は裁判所として使われるなど、小南が係わったすべての建築が完璧に大火に耐え、そしてその後の復興事業を進める拠点的役割を担ったことを知らなければならない。
その小南が建築学会会長で、当時耐震構造学の最先端を走っていた佐野利器の指導の下に、大火の前以上に強い使命感を持って取り組んだのが復興小学校であることも知らなければならない。




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写真/函館市中央図書館蔵

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